悲しいのに長調な音楽

白井です。
今週は祝日の天皇誕生日を挟んだ週でしたので、週末があっという間に来たような感じですね。

先日、演奏のオンライン配信で、日本人なら誰でも知っている唱歌「シャボン玉」を選曲して演奏した奏者さんと“悲しい歌なのに長調”について話しました。唱歌「シャボン玉」は“シャボン玉飛んだ、屋根まで飛んだ”という誰でも知っている歌詞の歌です。
西洋音楽の音階には、大きく分けて「長調」と「短調」があります。
ご存知かと思いますが、長調は明るい響きの音階で、短調は逆に暗い響きの音階です。
唱歌「シャボン玉」は、長調の音階で作曲されている曲ですので、普通に聴けば子どもがシャボン玉で楽しく遊んでいる風景を歌った歌に聞こえます。

では何故「シャボン玉」が悲しい歌なのか??
実はあの曲を作詞した野口雨情さんが、子どもの命をシャボン玉に例えたとする説があります。
医療の発達していなかった当時、子どもが幼くして亡くなることは結構あったそうです。そして野口雨情さんもお子さんを幼くして亡くしていたそうです。
シャボン玉は風の強さなどでフラフラと頼りない動きで、それを子ども命と例えたという説であり、もしその説が本当であれば、「風、風、吹くな」は親の切なる願いということになります。
その説どおりの感情で聴くと、長調であるが故に、余計に泣けてくる曲となるのです。
本当に明るい歌なのか?それとも説どおりに悲しい歌のか?は分かりませんが、試しにシャボン玉を子どもの命とする説の感情で改めてシャボン玉を聴いてみてください。長調だからこそ、何とも言えない感情になるかと思います。

プッチーニが作曲したオペラ「トスカ」にも、こういったシーンが出てきます。
主人公であるトスカの恋人の処刑が決まっていて、トスカが偉い人に掛け合ってそれを何とか『空包での銃殺で死んだフリで免れる』という算段をつけたのですが、実際には実弾で打たれ恋人は死に、それでもトスカは空包で打たれて恋人は死んだフリをしていると思いこんでいるので、死んでいる恋人に「まだ動いちゃだめよ、もう少しそのままでいて」と語りかけます。その語りかけるシーンの音楽が、明るい音階の長調の音楽なんです。
私はそのシーンで毎回何とも言えない気持ちになります。

そして、天才モーツァルトを描いた映画『アマデウス』のラストも悲しいシーンで長調だったように思います。
最後の大曲「レクエイム」を書いている最中に亡くなり、大衆墓地にドサっと遺体を埋められるのがラストシーンだったかと思いますが、その後のエンディングにはモーツァルトらしい平和な感じの長調の曲“ピアノ協奏曲第20番 第2楽章”が流れていたかと記憶しています。
初めて観たときにはとても切なくやり切れない気持ちになりました。
“悲しい場面なのに長調の音楽”って、究極なのかもしれませんね。

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